【日本100名城】現存12天守の1つにして、四国最大の三層六階天守閣を持つ高知城を訪れた。

【日本100名城】現存12天守の1つにして、四国最大の三層六階天守閣を持つ高知城を訪れた。

 

筆者の広島生活も残すところ1か月となりました。

100名城全国制覇はならずも、せめて広島から行ける範囲の中国・四国・九州は制覇しようと、今回は高知城が目的地です。愛車のZZR-1400ともお別れになるので、ツーリングで高知を訪れました。

 

歴史

高知城は、関ヶ原の戦い後、入国した山内一豊が築いた城で1611年に完成しました。しかし1727年の大火で大手門ほか数棟を残して焼失し、現在残る建造物は1753年に再建されたものです。

その後も、明治6年(1873年)に発布された廃城令や、太平洋戦争による戦災を免れ、天守・御殿・追手門など15棟が重要文化財に指定されています。

現在これらは高知県の所有物となっています。実は1934年に国宝に指定されたものの、1950年に重要文化財に「格下げ」されました。現在は「高知城を国宝に」という運動が市民有志で行われているようです。

高知城はとくに本丸の建造物がほぼ完全な形で残っている全国唯一の城として知られています。

 

高知公園

 

城全域は高知公園として無料開放されていますが、天守と本丸御殿への入館は有料(大人420円)となっています。麓の高知公園にはインフォメーションセンターと無料のコインロッカーがあります。

天守閣への入館時間は9時から17時で、年末年始など休館日があるので事前に確認してください。スタンプは天守入口の入場券売り場の窓口に置かれています。

高知公園内は城を建設した山内一豊とその妻・千代の像や、土佐藩出身で自由民権運動を推進した板垣退助の銅像があります。

 

 

また訪れた際はツツジが見ごろを迎えていました。

 

 

ところで「高知」という街の名前の由来はご存知でしょうか。

山内一豊が城を建造し、初めて入城した際は「河中山城(こうちやまじょう)」と名づけられました。その後、度重なる水害を被ったことで、2代目藩主忠義は河中の表記を変更を命じ、「高智山城」と改名されました。後に省略されて「高知城」と呼ばれるようになり、都市名も「高知」と呼ばれるようになったと言われています。

 

天守閣内

天守閣は三層六階の立派な建物です。

小高い山の上にあるので、麓から眺めるとそこまで大きさを感じませんが、実際に近くまで寄ると大きさを実感できます。国宝に指定された松江城にも引けをとらないサイズなので、国宝に「再格上げ」してもいいんじゃないの、とも思います。ただ外観からは六階建てには見えませんね。

 

 

下の写真は「上段の間」と呼ばれ、外の部屋より床を一段高くした藩主の御座所になります。来客応接の間として武家・大名の屋敷には必ず設けられていました。取っ手が付いた襖のようなところは「帳台構え」という場所になります。裏は納戸となっていて、藩主護衛の武士が隠れたことから「武者隠し」とも呼ばれます。

 

 

帳台構えを裏から見ると、3~4畳ほどの小間があります。ここに護衛武将が隠れており、何かあって藩主が「曲者じゃ!出会え出会え!」というと、ここから飛び出していくんですね。

 

 

天守閣は最上階まで登頂することが出来ます。3階あたりから階段が険しくなるので、最上階まで登るのにやや苦労します。最上階からは高知市内の東西南北を眺めることが出来ます。

 

 

上の写真は、北東方向を向いたもので、三の丸広場を見下ろすことが出来ます。下の写真は、北西方向を向いたもので、こちらは二の丸広場や鉄門を眺めることが出来ます。高知市内は高い建物が多くないので、本当に市内を一望できます。

 

 

天守に引っ付いている御殿にも展示物があります。まずは、長宗我部元親の躍進を支えた「一領具足」です。農作業で培われた屈強な肉体を持つ農民に、具足一領を与え、戦時には急いで駆けつけられるようにしたシステムです。元々同じ村で暮らしていることもあって、統率も容易だったようです

 

 

その先には、捕鯨の様子を再現した展示があります。銛で突かれるところや、砂浜で解体される様子など、妙にリアルです。シーシェパードのような団体が来たら卒倒しそうです。

 

 

まとめ

市街地の中心部に位置し、周辺には行政機関が立ち並ぶことから、香川の高松城を想起させます。大きく違うのは、立派な現存天守を持つことで、観光客も非常に多かったです。日曜朝市が開催されていたこともあり、高知市という街の熱気を感じることが出来ました。