1998年ジャカルタ暴動を経験した筆者が、20年経った今想うこと。

 

1998年5月14日。

1997年アジア通貨危機の煽りを受け、また30年間続いたスハルト独裁政権への国民不満が爆発した日。1998年5月12日にジャカルタのトリサクティ大学で反政府デモを行っていた学生に対し、治安部隊が発砲、4人が亡くなったことに端を発した1998年5月暴動(ジャカルタ暴動)が激化した日。

そして、当時のジャカルタ日本人学校児童生徒・教職員が学校で一晩を明かす臨時宿泊をした日。

 

あれから20年。

当時学校に泊まった850余人の児童生徒の一人として、そして今再びジャカルタで生活している筆者が想うことを、節目として記事に残します。

 

 

当時の概略は以下を参照してください。暴動のバックグラウンドについてはそれだけでいくつも記事が書けてしまいそうなので。

ジャカルタ暴動 「経済を支配」華人標的に(日経新聞)

お母さんは忘れない 5月暴動から15年 (2013年05月14日)(じゃかるた新聞)

 

さて1998年当時。筆者はジャカルタ日本人学校に通う小学校低学年の児童でした。まだ年端もいかない子供だったため、インドネシアで時代が変わろうとしていたことなど、気に掛けることもありませんでした。

もっとも当時の大人、自分の両親や学校の教職員の方々はその限りではなかったと思います。すでに廃版となっているようですが、数年後筆者が当時を思い起こすのに役立った一冊の本があります。2000年に発刊された、阿保和宏さんという方がまとめた『緊急一斉下校―ジャカルタ発 ジャカルタ日本人学校体験記』という本です。

この本では当時の大人たちが、どのようにしてこの危機に対処したか、体験談がまとめられています。全校生徒千数百名のうち、危険を察知したいくらかの児童生徒の家族は早々と日本に帰国していました。

筆者はというと、父親が転職して現地企業に勤めており、仕事もあるためジャカルタに滞在したままでした。

 

5月14日も、いつも通り登校し、午前中の授業を受けていました。そしてお昼休みの前後だったでしょうか。先生方が幾分慌ただしくなり、ほどなく校内アナウンスで緊急一斉下校が告げられます。

スクールバスに乗り込みしばらく進むも、現在のBintaro Plaza近辺で暴徒に遭遇したため学校へ引き返すことに。学校に戻ったのが昼の2時頃だったでしょうか。

 

さすがにただならぬことが起きていると子供ながらに気付き、教室に戻ってから普段はつけてはいけないと言われていたテレビを付け、同じように学校に戻っていた何人かの同級生とローカルニュースを観てみます。ニュースでは炎上する建物や、転がり燃えている車、そして暴徒の様子が映し出され、そこで初めて今ジャカルタで何が起きているかを知りました。

恐怖で泣き出す児童もいましたが、自分はどこか遠い場所の出来事であるかのような感覚でした。ついさっき暴徒に遭遇したというのに、まだ現実を掴みかねていたのだと思います。

それから続々と、同じように帰路途中で暴徒に遭遇し、学校に引き返してきた同級生がいました。ただ実際、この時何台かのスクールバスは強行突破を試み、無事自宅まで送り届けることが出来たという話も聞きました。

それからどう過ごしたかは正直覚えていません。恐怖のようなものはあまり感じていなかったです。それより日が落ちて夜になるにつれて、「友人と学校に夜までいる」という非日常的体験に、逆に昂揚していました。

 

次の記憶は、夕食の配給です。

夕食と言っても、塩むすびが2つ、それにクッキーと、水という本当に非常食のようなものでした。塩むすびは、職員の方が必死に近くの店へ米を買いに行き、当時の最上級生である中学3年生が家庭科室で握ったものでした。それを低学年から順に配っていったそうです。

 

夜になっても暴動は治まらず、一向に帰宅できる目途が立ちません。自分は友人とオセロをして過ごしていましたが、深夜12時前になって先生から教室で寝るようにとお達しを受けます。たしか、体操で使う用のマットを教室の床に敷いて寝ました。

後になって聞いた話ですが、この時いくつかの会社は自社の駐在員の子供だけを連れて帰ったり、あるいは親が学校まで来て一緒に泊まったということもありました。

 

翌日、5月15日朝4時。

まだ陽も昇らないうちに先生に起こされます。「帰るから用意して、すぐバスに乗りなさい」と。

暴動が収まっている夜明け前のうちに、送り届けてしまおうという計画でした。前日とは違い、すべてのバスに先生や教職員が同乗します。

そしてようやく空が白みだした5時半頃、自宅に着きました。両親に出迎えられたのを覚えています。

 

それからも激動の日々でした。

臨時宿泊から1週間後、ようやくフライトが取れたので日本に帰ります。この頃には街の様子も大分落ち着いていました。到着した成田空港でテレビの取材を受け、「学校に泊まれて楽しかった」と無邪気に答えたことは今でも忘れられません。おそらくテレビ局の人は「怖かった」とかそういうコメントが欲しかったのだと思います。(ちなみにそのままオンエアされたそうです)

学校は一時閉鎖。筆者は日本の母方の実家に身を寄せ、日本の小学校に体験入学をしていました。ジャカルタ日本人学校が再開したのは6月10日のことでした。

登校初日。30人程度いたクラスは、数人しか出席していません。全校生徒でも150人程度しか出席していなかったそうです。そのまま本帰国した児童生徒も多く、暴動前は千数百名いた生徒数も半分の600人程度まで減りました。別れの挨拶もできずに離れてしまった同級生も数多くいました。

ちなみに翌年1999年も民主化に伴う総選挙があり、1か月程度学校閉鎖がありました。この時は父方の実家に身を寄せ、これまた体験入学をしていました。余談ですが、さらに翌2000年も、今度は父の体調が悪化し、またまた体験入学をしていました。3年連続で違う場所で体験入学という稀有な体験でした。

ジャカルタ日本人学校でもこの出来事をきっかけに、様々な教訓が出来ました。その一つが「学期初めにバスタオルを持参し、教室に保管しておく」ことでした。臨時宿泊に際し、毛布や布団もなく固い床で寝ることになりました。ならばせめてその代わりにと、各個人がバスタオルを持ち込むおうになったのです。筆者が卒業するまでこの習慣はありましたが、現在でもあるかどうかは知りません。

 

これ以降、筆者にとって5月14日は毎年特別な日になりました。

歳を重ね、当時何が起きたかを知るにつれ、「実は自分が時代が変わる瞬間に立ち会っていて、それを身をもって体験したのだ」という自負のようなものが生まれるようになりました。

それと同時に、「当時は自分が幼すぎて、何が起きたかを十分に把握できていなかった。あの激動の時を、大人として過ごしてみたかった」という想いも生まれました。

 

そして20年後。

強烈な原体験を元に、そして時代が変わる瞬間に今度は大人として立ち会えないかという想いを抱き、筆者は再びジャカルタに戻ってきました。

20年を経て、筆者もインドネシアも大きく変わりました。それでも当時は華僑が狙われ、今なお異教徒が狙われるテロが発生しています。つい昨日も、スラバヤで教会を狙ったテロが起き、犠牲者が出ました。実行犯は子供を含んだ家族だったそうです。

子連れの母親が自爆 スラバヤで同時多発テロ 3教会で爆発 13人死亡、43人負傷 (2018年05月14日)(じゃかるた新聞)

ただ個人的には、これらのテロと1998年ジャカルタ暴動は意味の異なる出来事だと思っています。暴動や殺人を正当化するつもりはありませんが、独裁政権で抑圧された時代から民主化を夢見て動いた末に起きたことと、民主化し平和を目指しているのに宗教的に相容れないという理由で異教徒を標的とするテロは、全く別のものではないでしょうか。

 

民主化し、ユドヨノ政権となってからのインドネシアは目を見張るような発展を遂げました。そして今、日本企業主導によって急ピッチでMRTが作られています。目抜き通りで工事をしているので、世界最悪とも言われる渋滞を引き起こしていますが、都市のインフラが一から作られていく様を毎日眺めることが出来るには、これもまた時代が変わる瞬間に立ち会っているとも言えるのではないでしょうか。

1998年暴動のように、一瞬で時代が変わる瞬間はもう訪れないのかもしれません。それでも日々様変わりする都市で、理不尽なことが起きることもあるけれども、実は温和なインドネシア人と仕事ができることを嬉しく思います。楽しく、刺激的な毎日を過ごしています。

そして今後万が一、あの時のような強烈な時代の変化に立ち会える時が来たら、その時は大人として起きていることを一身に享受し、後世に伝えていければなと思います。