【日本100名城】山頂の城跡にある滝廉太郎像は観光客の人気者!「荒城の月」が流れる岡城跡を訪れた。

【日本100名城】山頂の城跡にある滝廉太郎像は観光客の人気者!「荒城の月」が流れる岡城跡を訪れた。

 

大分ツーリングの折、最大の見どころは瀧廉太郎記念館と岡城址に決めていました。瀧廉太郎記念館については前回記事にしていますのでそちらを参照ください。

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今回は、廉太郎が荒城の月を作曲する基礎やアイデアが生み出されたまさにその場所、岡城についてです。

 

 

アクセス

瀧廉太郎記念館などに訪れる場合は「竹田市立歴史資料館」の無料駐車場を利用します。

しかしここから岡城址まで、歩いていくとやや距離があります。ですので、いったん車両を「岡城址駐車場」に移動させることをおススメします。この駐車場も無料で、岡城址への入場券(300円)100名城スタンプもここにあります。岡城址への立ち入りは、石垣補修や環境整備のため有料となっています。入場手続きは9時から17時となっています。

駐車場から先は、関係者以外は徒歩での移動になります。岡城は標高325mの高さに立つ堅城として知られ、道中もけっこうな山登りになります。それでも本丸跡や瀧廉太郎像がある二の丸跡まで、片道15分~20分程度で到着します。

 

概要

岡城は鎌倉時代の直前、緒方三郎惟栄(これよし)が源頼朝と仲違いをしていた弟・義経を迎えるため築城したと伝えられています。結局、義経は今日から九州へ逃亡することなく、奥州(東北)へ向かったため岡城に入城することはありませんでした。

その後、時は移り戦国時代。

天正14年(1586)、弱冠18歳の大友家配下の志賀親次が、島津の大軍をものともせず岡城を守り抜いたことで、豊臣秀吉から感状を与えられたことで知られています。しかし、その後大友もろもと城を没収され、文禄3年(1594)に岡藩初代藩主となった中川秀成(なかがわひでしげ)が石垣作りの城を作り直しました。

中川家は明治の時代まで続くことになります。

明治4年(1871)には、14代277年間続いた中川氏が廃藩置県によって東京に移住し、城の建物はすべて取り壊されました。

 

城址の様子

岡城は廃城令で一切の建物がなくなっており、現在残っているのは石垣のみです。本丸跡へ向かおうと大手門参道を上がろうとしたところ、石垣の上に何かが立っています。

 

 

カメラの望遠を最大にして覗いてみると、甲冑を纏った鎧武者が立っています。この鎧武者、あまりにも動かないので、最初は展示品か何かかと思っていました。しかし実は地元のボランティア?の方が、来場した人へのサービスで行っていたそうです。子供の写真撮影にも気さくに応じていました。

 

 

瀧廉太郎との繋がり

「荒城の月」作曲者の瀧廉太郎は、幼少期を竹田で過ごしました。廉太郎は荒れ果てた岡城で遊んだ印象が深いと述べ、ここから曲のイメージを得たといわれています。

そのため城址の二の丸跡には廉太郎の銅像が、山頂付近の目立つところに建てられています。ちなみ廉太郎像は夕方になると逆光に晒されるので、写真を撮る場合は午前中に訪れることをおススメします。

 

 

岡城の下を走る国道502号の上り車線にはメロディ舗装が施された区間があります。ここを車が通過すると荒城の月のメロディが聞こえるようになっており、岡城までその音色は響いてきます。

ちなみに岡城のふもとにはペンション『荒城の月』があります。空いているの閉まっているのかよく分からなかったです。なぜこんなところにペンションが…と思わずにはいられません。そのネーミングセンスも、この外観だとラブホに見えてしまうのはなぜでしょう。

 

 

まとめ

岡城は、瀧廉太郎像などの見どころにいくまではやや道のりが険しいです。それでも往復30分程度で行けるので、そこまで時間はかかりません。

駐車する際は、入場料徴収所前の無料駐車場に停めるといいでしょう。岡城に登頂した際は、ぜひメロディ舗装の音色に耳を澄ませてみてください。